0話





 滑りながら押し寄せる闇は波。それは次から次へと形を作りながら雪崩れるなりそこないの小さな山脈。その形は大きければ大きいほど本当の山に近づけたのだろう、その波は砂でできていた。
 空は夜の帳を落としてしまってからずいぶん経っていた。ばらまかれた砂糖粒の様な星達は、片付けられる事を惜しむ様に変わらず瞬き続けている。
 月は出ていなかった。
 波打つ砂の流れは思うより早く、その粒の動きは細かな魚を想わせた。波の上を滑る風はそれよりも早く切る様に、その速さで自身も痛むのかひたすらに音が鳴っている。
 砂も風も向かう先は同じく東。そこにはこれから昇るはずの太陽が眠っている。時は少しずつ明けに向かうが、闇が去るにはまだほんの少しだけ猶予があった。
 滑る砂の波は昇る陽を沈めるように次々と流れた。その終わらない波紋は船が行くべき場所によく似ている。これなら泥の船でも流れてゆくのだろう。
 けれど砂は大地を満たしきっていなかった。空から眺めることができればその形がわかる。これはまだ国ほどの大きさもない。それは増えることも減ることもなく、楕円に寄り集まり、地を滑るように移動していた。
 その波の通り跡には緑の芝が沸いた。沸いたと言うのは妙であろう。しかし砂が通る前からそこに芝があったのなら、その芝は砂によって擦り痛んだ傷があるはずだ。けれどその芝に傷はなく、まるで水を与えたばかりのように艶やかであるのだから、やはり沸いたと言うしかないのだろう。 砂の行く先を見ればそれは荒野ばかりでもあったのだから。
 旅人がこの波に出会ってしまったらどう思うだろうか、果てのない流れに先を行くのをあきらめるだろうか、それとも未知を知る機会だと喜んで波に入るのだろうか。
 気をつけた方が良い。この波の中に足を踏み入れたのなら、果てにたどり着くまでは歩みを休めたらいけない。休めてしまえばそのとたんに砂が身を埋めにやって来る。浅いうちはまだ良いが深くなれば打つ手はない、そのまま溺れてしまう。身体は乾ききったままだというのに……。

 そんな流れを渡ろうとしているのか、二つの影が波に切り込みながら、西に向かって歩いている。
 一人は男もう一人は子供。馬も荷物もなく、それに寄り添いもせず少し離れて、お互いにお互いを見ようとはせず会話もない。旅人らしくは見えなかった。
 彼らはこの砂の決まりを知っているのか休むことなく、ひたすらに陽の元から離れようとしていた。
 遠ざかっているのは陽の元ではなく砂の地であり、波の根元に逆流していく姿ははたから見れば一向に進んでいないように見える。しかし果ては近く、後もう少し時が経てば砂と彼らが互いに離れて行くであろうと言う事が、彼らの視界の先で少しづつ面積を広げる、あの艶やかな芝が証明していた。彼らにはまだ、その色が緑だと言う事までは判らない。
 陽の元に近い方子供が、波をうまくこなせずに転んだ。
 ここでようやく空の色が薄れ始めた。子供の先で振り返った男は、芝の色を見るよりも早く子供の色を見る事になる。その子供は、明け始めたとはいえまだ色も判らぬ世界の中で、ひときわ目立つ白だった。
砂に伏せた子供の頭は風に絡み炎の形になる。暫くそれを見せて子供はゆっくりと顔を上げた。短く白い髪はそれでも尚後ろへはためく。それは同じ色のシャツもそうだった。
 もう一度空の色が変わる。子供はそれに気づいたか、立ち上がる事よりもそれを眺める事を選んだ。
 子供の目の先では、満たされた黒が少しづつその染みを落とされて蒼く変わった。散らされていた星々はその蒼に負け、溶ける様にに小さくなり見えなくなる。ほんの少しの間だけ全ての色は蒼に浸され、仄暗くしかし明るくその世界を開かせた。
 どれだけの時間そうしていたであろう。砂は子供の膝を埋めるまで積もっていた。しかし子供はそれに抗う様子は見せずまだ積もりつつある砂を、そして沈みつつあるその身を眺めた。
 男は振り返った場所から動かずに、それをただ見ていたのだが、ここで漸くその場を離れた。男の足に積もった砂が崩され二つの山になってすぐに雪崩れた。男は子供から二歩のところまで近づくと、おもむろに顔を上げた子供の、今は色の判らぬその緑の瞳を見詰めた。
 緑の瞳の子供は、自分の身丈よりも更に高くなった相手を見上げる。 いつの間にか自らの後ろから射していた強い光が、男の顔を覆い表情を消した。しかしその瞳は光を受けて、万華鏡のような様々な朱をばらばらに輝かせた。
 見降ろされているのだと解った子供は目を逸らせた。男の白い旅装束と、長く纏められた金色の髪が、風によって散りはためく音だけを聞いた。
「このまま放っておけば、いずれ沈むよ…」
 始まらない何かを終わらす様に子供が吐いた。
「残念ながら」
 男は答えて子供の手を強引に引き上げた。「その価値は?」と子供が問えば「残念ながら」と言いながら男はそのまま砂の波を引き裂き始めた。
 砂の中に靴を落とした。
 子供はなくした物の為に振り返る。しかし砂はそれを跡形もなく沈めてしまった。その代りに太陽が姿を現した。辺りはすっかり色を思い出したように眩しくなる。
 あの蒼の時間は、どれだけ短かったのだろう。
 何と比べているのだろうか。子供は確かに思い出そうとしていた。子供の足が再び止まろうとする。しかしその手を掴んでいる男は気づかない。
 たどり着いたら止まってもいいのだろうか。
 何かを言いそうになった子供は、しかし振り返った男の横顔にそれを遮られる。今度は男が立ち止まり、細い眼をさらに細めて昇る陽を見た。
 沈まぬうちに動く事を約束できるなら……。
 子供は男にもう一度何かを言おうとした。しかしそれも出来ぬまま、男の見つめる先を見た。砂は、二人を少しずつ飲み込みながら東へ移動している。
 砂の先はまだ知れず、遠い遠い所に、その波は止むことはなく。しかし彼ら二人は飲み込まれるより早く、その果てにたどり着くはずだろう。
 けれどその前に、眩しすぎる光に亡くした、蒼色の思い出で、明ける為に登るあの太陽を隠して。
 近づいてくる、砂の海を渡りきったその場所は……。















                              終わりの御先

  • 最終更新:2015-11-26 11:22:00

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