ミルククランチ

 題名と題材は友人がくれたお題より。




 乾いた食べ物が嫌いと言うわけではなかった。しかしなぜかクッキーに限って、彼、セレイネイドは砕いてからミルクに漬けて食べる事を好むのだ。
 今もセレは深皿の中のミルククランチをスプーンでかき回している。
「おはよう」
 と声がすれば彼もおはようと返す。彼らにとっては今が朝、しかし、空は逢魔が時。暮れきらず、もしくは昇りきらない日の有り処に、そろそろ疑問を抱いてもいいほど、その色は長く続いていた。
 先に挨拶をした男がセレの目の前に座る。焦げた砂糖の様な色の真四角の机に、それによく似た色の肌の男。
 セレの黒い髪とは対照的な鈍く光る銀の髪。同色のまつ毛に縁取られた瞳は青く、これもセレの赤い瞳とは対照的であった。ついでに言えばその年齢も。
 十代の中ごろに見えるセレと中年に差し掛かろうとしているように見える男は、はたから見れば男は、少年であるセレの血のつながらない保護者のように見えたかもしれない。
「セレ、それが朝ごはんなのかい?」
 現に男は保護者の様な口ぶりであった。
「ああ、簡単に済ませられる」
 セレは眉を寄せる男を見上げ、それから静かに砕けたクッキーを掬い上げる。しばらくミルクに使った黒いクッキーは程よく水分を含みふやけていた。
「いくらなんでも粗末すぎるだろう?旅行中と言うわけでもないんだから」
 もっとちゃんとしたものを食べなければ。そう続ける男の眉間は更に寄っている。ほんの少し乗り出した頭に窓から空の色が映る。陽の見えない深い藍色が、彼の灰色をその色に塗り替えた。
「特に動く用事はない。今朝はこれで十分だろう」
 消費するエネルギーの問題だった。彼らがこの、文字通り閉ざされた世界、苑国(えんこく)を作ってからはさほど日は経っていないが、外界に赴こうとしなければ今のところはその移動範囲は限られる。何せまだロッジの様な家とその周辺しか出来上がっていないのだ。
 空間の裂け目を利用して作ったこの世界を、探索しようにもきっと一時間で終わってしまう。それにセレは昨晩は徹夜で本を読みきったばかりであり、頭の整理をするためにもひと眠りしたかった。
「しかしだね、セレ、気持ちの問題もあるだろう?できるうちに豊かな食事をした方が良いと思うよ僕は」
 要らぬお節介と言うべきであろうか。
 見た目も、年齢も男の方が確かに年上であったが、セレは男には持ちえない、遥かに年月を重ねた記憶を持っていた。その記憶と合わせれば、男の方が子供になろう。
 だから余計な指図を真に受ける必要もなく、煩わしければ黙らす事も出来た。しかしセレは案外、その小言を心地よく聞いていた。
 男の声の、低い鐘の音の様な響きが気に入ったのかもしれない。それとも、その言葉に込められた温もりに当てられたのか。いずれにせよ、彼はただ黙し、その言葉を、音を受け入れた。ただその意味を受け入れることはせず、スプーンに載ったまま固定されていたクランチを、言葉が過ぎるのと同時に漸く口に運んだのだ。
 男はその様子をみて、口を閉ざし、乗り出していた身を引いた。
「美味しいかい?」
男がそう微笑んで聞けば、セレはほんの少し微笑みを浮かべて頷いた。



***





「なぜ蜜柑なんだい」
 飲み干したコーヒーのカップを置いて男は窓際に背を預けた。
窓の外、空の色は時間がどれだけ流れようと一向に変わらなかった。時計の針は六時を指していたが、それが朝なのか夜なのか、判らなくなるほどの時間を二人はここで過ごしていた。
 呪文書を引き、一つずつ構成を読み上げる。その度にこの空間は広がる。
 以前はロッジの様な小屋とその周囲だけだったが、今では古式ゆかしい二階建ての屋敷くらいの広さになり、以前は二部屋ぐらいだった物が今では十二の個室を内包するようになった。
 しかし屋敷の外側はまだ一分もかからずその端にたどり着けてしまう。それでも以前より植物が増えた。葉を広げる広葉樹が窓の外に並ぶ。どの葉の色も茶色だった。
 セレは書物を捲りながら男の名を呼んだ。
「シリン。おいで、これを見るんだ」
 そう言ったが、近づいて行ったのはセレの方である。セレは分厚い書物を両手で広げながら、シリンの隣に寄り添う。そして、開かれたページの一部分を指で示す。
「お伽噺じゃないかセレ。君もこんなものを読むんだね」
 シリンは微笑んでその書物を受け取った。
「メルヘンには人生が詰まっている。あなどれないものだよ。この、三つの愛のオレンジと言う話だ。この要素を取り入れようと考えた。蜜柑の実から生まれたら素敵だろう?」
 シリンは見上げてくるセレの瞳を見つめて微笑んだ。セレは自らの瞳の色を嫌っている。その為前髪を長く伸ばしている事が多かったが、最近は色のついたレンズを入れる事を覚えたらしい。その黄緑の瞳はシリンに何か別の輝きを思い起こさせる。遠い昔の、どこかで置き忘れてきたような懐かしさだった。
 ああ、その輝きの正体を知っている。
 シリンはそれを自覚するたびに罪の意識に苛まれた。忘れたままでいい。今はどこかに置いてきたような、あの懐かしさだけを感じていれば、その痛みはただ甘いだけで済む。
 シリンは一度目を伏せてもう一度セレを見下ろした。今度は何を思い出す事もない。
「それは素敵だろうね。でも人間が生まれるには実は大きくなくちゃいけないよ。オレンジでも蜜柑でも小さすぎる」
「そうだ。人間一人をあの小さな実に詰めることはできない。実に入れるより幹に詰めてしまった方が安産型だろう」
「いつの間にか実が落ちて、潰れてたって事になってたら大変だ」
「君が言うにしては、とても悪い冗談だ」
 そう言ってセレは笑った。釣られてシリンも笑った。
 人工的に人間を作るだなんて大それたことをやっている。そんな雰囲気ではない。しかしこの空間はそんな事をしても許されてしまう。その様に感じる。
 人間を作ると言う事は一般的には禁忌だ。理由は宗教的な観念と道徳的な価値観から。『作ったからと言って罰を受けたりするわけではない』と言ったのはセレだった。元々はある酔狂な学者がシリンの知識を見染め、その研究を依頼したものだった。
 自分だけの天使を作りたいのだ。
 そう浮ついた声で言って学会のメンバーを集めていた。
 結局は実行できないまま彼は死んだ。研究を進めるだけの財力がなかったのだ。その後の研究は誰かが引き継いだのだろう。西方都学会と言っていた気がする。集められたメンバーはまたその学会へ戻って行ったはずなのだ。
 その研究についてセレは傍観気味であったので、だから後にこのように本格的に取り組む事になるとは思ってもみなかった。人間を作る。それを真剣に言いだしたセレは、自らの存在が、遠い昔は人の手によって造られたものだと明かした。
『造られた魂と肉体なら、人間の手によって破壊することが可能だと考えた。破壊した後の処理に悩んでいたのだが、あの研究を見て思いついた。破棄できないなら再利用すれば良い。作り変えてくれないか?君の思い出に…』
 そう言われたとき、シリンは全てを見透かされた気になり動けなくなった。同時に胸が酷く痛む。セレは気がついていたのだ、シリンがセレに何か別の面差しを重ねていた事を。そしてその事によってシリンは少しずつ無くしたはずの過去を取り戻していた事を。
 書物を読んでいた振りをしていたシリンは、セレの体温が離れる事を感じて我に返った。掌で眼を覆い、繕っても悟られているであろう嘘をつく。
「少し目がかすんでしまったよ。灯りを点け忘れていたね」
「じゃあ点けよう」
 そう言って振り返ったセレを見て、シリンは思ってもいなかった言葉が口に出る。
「どうして、緑にしたんだい?」
 セレはその意が汲めず首をかしげた。「いいや・・・」なんでもないとシリンは続けようとしたが、セレはシリンをじっと見つめ、頷いた。
「ペリドットの色だよ。あれは太陽の石と言われている宝石だ。夜になっても輝きを失わないから、教会のステンドグラスに使われたりもしたそうだ。私は夜の生き物で居る事に飽きてしまった。だからこの身に、太陽を移植したかったのだ」
 そう言って蛍光灯のスイッチを入れた。
 紛い物の太陽が、室内を昼に塗り替えた。

  • 最終更新:2015-11-26 11:17:40

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